出産現場と精神論ー「お母さんの愛情が足りなかったから」という言葉が母親を傷つけるときー

第1章 出産現場と精神論ー「お母さんの愛情が足りなかったから」という言葉が母親を傷つけるときー 精神論の弊害

「出産が大変だったのは、お母さんの愛情が足りなかったからだよ」

もし誰かが、こんな言葉を使っていたとしたら、どう感じるでしょうか?

これが他人事に思えない人も多いかもしれません。
実際に、妊娠・出産をめぐる場面では、このような“母親の愛情”と“出産”を結びつける言葉が、あちこちで語られています。

しかし、この言葉は本当に正しいのでしょうか?
誰かを救うどころか、むしろ傷つけてしまっていないでしょうか?


■ 「愛情が足りなかったから」─その言葉が母親を追い詰める

たとえば、ある妊婦さんが、出産の際に大変な経験をしました。

本人も家族も、万全の準備を整えて臨みました。それでも結果は予想を超えるものになり、身体にも心にも深い傷が残りました。
この結果は誰にでも起こり得ることであり、決して誰かの責任ではありません。
それにもかかわらず、彼女の親戚の一人がこう言ったのです。

「あなたの出産が大変だったのは、愛情が足りなかったからよ」

――これは明らかに誤りです。
しかし、こうした“精神論”が、出産や育児の現場で語られることは、実際に少なくないのです。

この言葉は一見すると「本人にもっとがんばってほしかった」というような激励のようにも聞こえます。しかし実態は、母親に「責任」を押しつけているに過ぎません。


■ 「愛情があればうまくいく」の本当の意味

そもそも「お母さんの愛情があれば、出産がうまくいく」という言葉は、医療関係者や周囲の人々が、妊婦さんの不安を和らげるために使われるのです。

たとえば、出産予定日が近づいたある日、妊婦さんが不安で眠れなくなっているような場面を想像してください。本来であれば、出産に備えてしっかりと体を休めることが大切です。

しかし、その妊婦さんは、不安や緊張から、十分に睡眠をとることができません。

そんなとき、医師や家族がこう語りかけるのです。

「それだけ赤ちゃんのことを思っているんだから、大丈夫。きっと元気に生まれてくるよ」

この言葉は、不安を抱える妊婦さんの気持ちを否定せず、その不安の裏にある深い愛情を認め、励ますものです。そうすることで、不安や緊張をやわらげ、安心して眠る――すなわち、合理的な行動をとるように導くものでもあります。

このように「愛情があればうまくいく」という言葉は、“うまくいく” ことを保証する言葉ではなく、 “うまく進めるように” 背中を押すための言葉なのです。


■ 励ましが責めになる瞬間──出産後に変わる言葉の意味

ところが、「愛情があればうまくいく」という言葉を、言葉通り因果関係として捉えてしまうと、その言葉の本来の意味と乖離してしまいます

「うまくいかなかったのは、愛情が足りなかったのかもね。」

この一言は、もはや励ましではありません。責任の追及です。

本来は、不安を抱える妊婦さんを勇気づけるための言葉だったはずが、愛情が「うまくいかなかった原因」として使われることで、その性質は完全に反転してしまっています。


■「母親の愛情」と出産の結果に因果関係はあるのか?

ここで一度、「因果関係」という言葉の意味を整理しておきましょう。

因果関係とは、ある出来事(原因)によって別の出来事(結果)が引き起こされる関係を指します。

たとえば、
・AということをしたらBという結果が起こった。
・でも、AをしなかったらBは起こらなかった。

このような場合、「AがBを引き起こした」と言えるので、AとBには因果関係があると考えられます。

ここで大切なのは、他の条件がすべて同じであることです。
たくさんの条件が同時に変わっていると、「どの要素が結果に影響を与えたのか」がわからなくなってしまいます。

たとえば、「ある薬(A)を飲んだら熱が下がった(B)」というケースを考えてみましょう。
もしそのとき、十分な休養を取った(C)という条件も同時に加わっていたとしたら、熱が下がったのは薬の効果なのか、休養の影響なのか、あるいはその両方なのか、判断が難しくなります。

だから、「他の条件は何も変えていないのに、Aだけを変えたらBが変わった」と言えるときに、
「Aという原因で、Bという結果が起きた」と判断できるのです。

では、「母親の愛情」と「出産がスムーズにいくかどうか」は、因果関係にあるでしょうか?

――いいえ、ありません。

母親がどれほど深い愛情を持っていても、出産にはさまざまな要因が複雑に関わります。

たとえば:

  • 母体の健康状態
  • 胎児の位置や体重
  • 陣痛の強さ
  • 医療スタッフの判断
  • 使用できる医療設備
  • さらには病院に到着するまでの交通事情など

こうした無数の要素が重なって、結果が決まるのです。

だからこそ、「愛情が足りなかったから出産が大変だった」といった言葉は、
科学的にも、論理的にも、人としても、まったく正しくありません。

それは、ただでさえ過酷な体験をした母親に、根拠のない責任を押しつける言葉になってしまいます。


■ まとめ──言葉が生む力を、正しい方向へ

妊娠や出産という大きな出来事の中で、母親たちは想像以上の緊張や不安、責任感を抱えています。
そんなときにかけられる一言が、励ましになるか、それとも傷になるかは、「言葉の選び方」ひとつにかかっています。

「お母さんの愛情が足りなかったから」
この言葉は、科学的な根拠もなく、母親の苦労や努力を無視し、一方的に責任を押しつけるものです。

出産には無数の要因が関係しており、何か一つを原因にすることはできません。
特に「愛情の多さ・少なさ」といった主観的なものを出産結果と結びつけることは、根拠のない偏見にすぎないのです。

言葉は、人を支え、安心させ、前に進むための力を持っています。
だからこそ、私たちはその力を、誰かを責めるためではなく、支えるために使うべきなのです。