第1章では、「母親の愛情が足りなかったから出産が大変だった」という発言が、誤った精神論に基づいており、母親に責任を押し付けるものであることを指摘しました。精神論は、本来、合理的な行動を促すための言葉であり、決して責任追及のために使うべきものではありません。
それにもかかわらず、私たちの身の回りにはこうした誤った精神論があふれています。なぜこれほどまでに精神論が広がっているのでしょうか。
その“入口”として私が注目したのが、「部活動」という場です。
■ 部活動における精神論
部活動は、私たちが最も早く精神論に触れる場面のひとつです。学生時代の部活では、指導者や先輩から「やる気」「根性」「努力」といった精神面を重視する言葉が日常的に飛び交います。
「もっと練習しろ」「気持ちが足りないから負けたんだ」
──こうした言葉は、結果が出たときには正当化されやすいものです。
実際、指導者の中には「厳しい言葉をかけたら選手が奮起して結果を出した」という経験から、その手法を正当化する方も多いでしょう。その結果、「精神論こそが正しい理屈である」という認識が根付いていきます。
■ 精神論の効果と限界
精神論が部活動で一定の効果を持つことは確かです。選手が奮起したり、気持ちを切り替える契機になることもあるでしょう。
しかし、ここで重要なのは、精神論が「結果を出すための手段」として“たまたま”有効であったにすぎないという点です。精神論が効いた背景には、以下のようなさまざまな要因が複雑に絡んでいます:
- 選手本人の身体的・技術的な成長段階
- チームの戦術的な準備や計画
- 相手チームの強さや状況
- 試合環境や偶然の要素
- 指導者との信頼関係や日頃のコミュニケーション
たとえば、信頼関係のあるコーチからの「お前ならできる」という言葉は励ましになりますが、信頼関係が築けていない相手からの「気合が足りない」という一言は、ただの罵声にしかなりません。
つまり、精神論とは「条件が整えば使える戦術」であって、「あらゆる場面で通用する正しい理屈」ではないのです。
■ 責任追及としての精神論──部活動ではなぜ許されるのか
第1章で取り上げた出産の場面では、精神論を責任追及の手段として使うことは不適切でした。なぜなら、出産は本人の意思や努力ではどうにもできない外的要因が数多く関わるからです。
では、部活動においてはどうでしょうか?
私は、部活動という枠の中であれば、精神論を責任追及の手段として使うことも教育的に意義があると考えています。
部活動は、生徒が自らの意思で挑戦し、自分の行動と結果の因果関係を実感できる「育成と挑戦の場」です。失敗しても命に関わるわけではなく、そこからの反省や自己改善が将来の成長に繋がります。
たとえば、練習を怠った、集中力を欠いた、そうした行動が結果に影響したときに、「それは自分のせいだ」と気づくことは、責任感を養ううえで非常に重要です。
このように、部活動は精神論を責任の自覚と成長に繋げやすい“特殊な環境”なのです。
■ 教育に求められるのは「使い分けを教える力」
とはいえ、精神論がすべての場面に適しているわけではありません。むしろ、その言葉の“射程”を理解せずに使うことは危険です。
「部活動で精神論が効果的だったから、他でも使えるはず」
「出産や経済的な困窮も、本人の気持ち次第じゃないか」
──このような発想で精神論を持ち出すことは、状況に対する無理解を示すものであり、時に深く人を傷つけてしまいます。
精神論には、「有効な場面」と「使ってはいけない場面」が明確に存在します。
だからこそ、教育者や指導者には、その“使い分け”を正しく教える責任があります。